こうして旅は始まった


視界に開けてゆく海―――そこはもう、世界樹の島からはもちろん、地上のあらゆる
陸地から遠い空の上だった。

何はばかる事なく飛んでゆく飛竜の背に、二人はいた。竜樹とセレアスの二人である。
竜樹はしっかりと、セレアスを抱いていた。もうその腕を離しても、セレアスが落ち
る心配など無いというのに。
「あ、あの‥‥‥、もう平気です」
おずおずとセレアスは言い、竜樹の腕から離れようとした。だが、竜樹はその腕をセ
レアスに回したまま。
「あの‥‥‥竜樹さん?」
セレアスはもう一度言う。竜樹はまだ離さない。
「竜樹さん!」
無理に離れようとすると、竜樹は腕に力を込めた。
「りゅ‥‥‥!」
「このままでいい」
言ってから一瞬の間の後、竜樹は言い直した。
「‥‥‥このままがいい」
セレアスは言う言葉をなくし、竜樹の腕の中で途方に暮れた。どう、応えたらいいと
言うのだろう。

セレアスは今では、竜樹の事を知っている。竜王の血を引く者という運命を背負って
生まれた事も、誰を愛する事も、愛される事も、またそんなきっかけさえも与えられ
ずにただ一人で生きてきた事も。最初は信じられなかったけれど、セレアスこそが、
竜樹がまともに出会った最初の人間なのだ、と。

18年生きて、初めて”他人”というものを知った竜樹。

セレアスは、竜樹が自分に、一通りでない感情を抱いている事を知っていた。嬉しい
と思うし、竜樹のために何でもしたいと思う。竜樹がこれからは、望むように幸せに
なれるように。そして何よりセレアス自身竜樹に対して、恩人であるという事実にも
増して、一人の人間として大切だという自覚があるのである。
それにしても―――新婚旅行?
竜樹の発言を思い返し、改めて訳の分からない思いに捕らわれる。
初めて他人を知り、大切に思った。それは分かる。だからこそその思いが、何にも増
して重く感じられても不思議はない。ないけれど、それがどうして”新婚旅行”にな
るのだ?セレアスは首をひねった。
―――大体、意味が分かっているのか?この人は。
竜樹は、しかし、戸惑うように自分を見るセレアスに対し、ただずっと抱き占めるだ
け。

一週間―――竜樹はそれこそ、一日千秋の思いで待っていたのだ。セレアスが、その
役目を終えるまでは待つと、自分自身に誓っていたから。だが、全てが終わった時、
もう、けして待ちはしない、さらってでも連れてゆく―――竜樹はその誓いを、実行
したのだった。

竜樹はあのラダトームの戦いの終わりに、自分の血筋から生い立ちまで、すっかり話
した。竜王のひまご―――セレアスは、ひどく驚きはしたけれど、逃げなかった。臆
する事なく、その事実を受け入れてくれたのである。
それでも、まだ、話していない事が、あるのだ。それも、一番大切な事が。
それは、セシリアの事。セレアスはまだ、自分が竜王の愛した女性の生まれ変わりで
ある事を知らない。‥‥‥そして、今の竜樹の想いも。そう、竜樹はまだ、自分の気
持ちをはっきりと、伝えていないのだ。

「セレアス‥‥‥」
竜樹はそっと、セレアスの顔を覗き込んだ。美しい蒼の瞳に、困った様な光が浮かん
でいる。
「あ、あの‥‥‥竜樹さん。新婚旅行っていうのは‥‥‥」
「知っている。好きな者を、好きなところへ連れていく。そして、その後はずっと共
  に暮らせるのだろう?」
言い淀む事なく、竜樹は言った。言葉に詰まったのは、言い出したセレアスの方であ
る。
「す、好きっていうのは、その、そういう”好き”じゃなくって‥‥‥」
あくまで、竜樹が本気で”好き”なのだとは考えもせず、セレアスは慌てて言葉を繋
ぐ。
「‥‥‥違うのか?」
怪訝そうな、竜樹。
「そうですよっ!大体、そういう事は女の人に―――」
何だか、言いながら赤面してしまう。こういう話は、けして得意ではないのだ。だの
に竜樹の、全てを見通すかの様なまっすぐな瞳が、自分をしっかりと見据えたまま、
離そうとしない。偽りのない、真実の黒。竜樹だけが身に纏う事の出来る色だと、セ
レアスは知っている。この瞳に、セレアスは言いようもなく惹かれてしまうのだ。見
惚れてしまい、引き込まれてしまう程に。

‥‥‥そう、竜樹に好きとか嫌いとか、はっきりと説明し切れない理由は、セレアス
自身にもあった。竜樹にじっと見つめられる時の自分自身の感情を、セレアス自身、
うまく説明し切れない部分があるのだから。

「大体、何だ」
全く怯まない、竜樹。恐れを知らぬ子供のように。小さい子が、分からない事がある
と何でも「どうして」と聞くのに似ていた。納得のいく答が得られるまで、引き下が
らない。言ってみろ、とでも言わんばかりの竜樹の視線の前に、セレアスは言葉を継
げなくなってしまった。

―――こういう”好き”では、駄目なのか?

そう、竜樹の目が告げた時―――ぐい、とセレアスの頭が後ろから抱えられ、竜樹の
瞳がいっそう近付き―――身動き一つ出来ないまま、セレアスは竜樹に、唇を奪われ
てしまった。
一瞬、時が止まったような静寂―――しかし、セレアスが事態を把握するのに、さし
て時間はかからなかった。
「‥‥‥っ、竜樹さ―――!!」
さっと唇を離し、セレアスは叫んだ。真っ赤に染まった白い頬に、驚きとも怒りとも
つかぬ表情を宿して。だが、その言葉が終わらぬ内に、竜樹の唇が、白く、柔らかい
セレアスの首筋を吸った。
「あっ‥‥‥!?」
びりっ、と全身に電気が走ったような衝撃に、セレアスは声を上げた。
「セレ‥‥‥」
夢見るように、竜樹は呟いた。もう待たないと、決めたから。そうしたいと思うまま
に、セレアスを愛していくと決めたから。
「やっ、なっ、何するんですか!」
竜樹の唇が這い、セレアスはかっとなって声を荒げた。どくん、と心臓が跳ね上がる。
竜樹の唇の触れた所が灼熱し、その熱がたちまち全身を支配した。
セレアスは焦って、竜樹の腕から逃れようと必死になる。考えがばらついてまとまら
ない。竜樹は男で、自分も男で―――だとしたら、この状況は一体何なんだ!
「抗うな。じっとしてろ」
「ふっ、ふざけないで下さい!」
竜樹はセレアスの抗議を受け、心外そうに言った。
「ふざけてなど、いない。最初からずっと―――そして、これからもな」
まっすぐな瞳―――セレアスは、ハンマーで殴られたような衝撃と共に、竜樹の腕の
中で硬直した。
竜樹の口付け―――忘れていた、いや、忘れようとしていたけれど、それは、初めて
ではなかった。その訳を問いただす事すら、セレアスは出来ないまま、ここまで来て
しまった。
でも―――まさかそんな‥‥‥。
ここにきて初めて、セレアスは真実の可能性に思い至った。だがまだ、それを否定す
る理性が強く働いている。―――有り得ない、と。
だのに、それをさらに否定するかのように、竜樹の右手が、セレアスの胸元に伸びて
くる。
「ちょっ‥‥‥まっ、待った!待って下さい!」
「嫌だ。もう待てん」
「待って下さいって言ってるでしょう!?」
「いつまで待てと言うんだ。もう十分待った。1週間、ずっとずっと、俺は待ってい
  たんだぞ」
「1週間ったって、‥‥‥やっ、やめて下さい、1週間経ったらいいって問題じゃ―
  ――!」
「時間など、どうでもいい。‥‥‥今、お前が欲しい」
どくん、とセレアスの心臓が飛び出した。
欲しい―――。
もう冗談では済まされない状況にある事を、セレアスは知った。竜樹が本気で、自分
を‥‥‥しようとしている。他には誰一人いない空の上で、セレアスは竜樹に、力で
かなう筈がなくて―――。
竜樹が再び唇を寄せた時、セレアスは本気で焦った。このままでは、望もうと望むま
いと、竜樹に押し切られてしまう。
「い―――!」
嫌だ、という言葉が、遮られる。竜樹は、深い口付けでセレアスの言葉を奪った。
セレアスは、恐くなって必死で抵抗した。その身体が、ふいにびくっと脈打ち、セレ
アスは反射的に歯を食いしばった。
「痛っ―――!」
竜樹は唇を離し、右手で押さえた。つっと、赤い筋が伝う。
「あ‥‥‥」
我に返り、セレアスは自分のした事を知った。竜樹の唇が切れて、血を流していた。
「‥‥‥そんなに、嫌なのか?」
「!竜樹さ―――」
唇の端を押さえ、うつむいた竜樹の沈痛な表情に、セレアスは胸が痛くなった。傷つ
けたのは竜樹の唇だけでなく、その心もなのだと。悪いのは確かに竜樹だったとセレ
アスは思うけれど、竜樹だけが悪かったのか、それは分からなくて―――。

おずおずと、セレアスは腕を伸ばした。その細い指が竜樹の唇に触れ、竜樹はぎょっ
としてセレアスを見た。セレアスは、小さく呪文を呟く。指先から光が溢れ、竜樹の
傷を癒していく―――。
「セレ―――」
「ご‥‥‥ごめんなさい」
自分が謝るのもおかしなものだと思いはしたが、それでも、口を突いて出てきた言葉
はそれだった。
竜樹の傷がきれいに塞がる。竜樹は最初、驚いた様にセレアスを見つめていた。その
目が、次第に済まなそうに、情けない程陰ってゆくのがセレアスには分かった。
「セレアス―――こんな事も出来るんだな」
「‥‥‥生まれは、メルキドの神官家なんです。魔法使いとして修行を始めるまで、
  ずっと神官としての教育を受けていましたから」
「そうか。‥‥‥俺は、お前の事を何も知らないのだな」
いよいよ情けない、どこか寂しげな表情で、竜樹は呟いた。
不思議な事だったけれど、出会ってからたったの1週間で、まるで昔からの知り合い
のように感じていたのだ。そして、それはセレアスも同じだった。今、二人は同時に、
気付いた。本当はお互いの事を、まだ何も知らない。

「セレ‥‥‥」
竜樹の、控え目な呼びかけ。
何が言いたいのか、セレアスには分かる気がした。

そう、まだ始まったばかりなのだ。今更のようにセレアスは思う。お互いを知らねば
ならない。そこから始めねばならないのだ。自分も、そして竜樹も。

「悪かった‥‥‥」
竜樹は、セレアスを恐がらせないように、出来るだけそっと抱き占めた。まるで、触
れただけで壊れそうなものでも扱うように。今は、振り切ろうと思えば簡単に振り切
れる、あまりに優しい抱擁だったから、セレアスは逃げなかった。
「お前の事が、知りたい」
竜樹は言った。
セレアスはただ、そっとうなずく。今が、きっとスタートラインなのだ。そう、セレ
アスは思った。これから始まる旅で、セレアスは竜樹を知り、竜樹はセレアスを知り、
時には互いを理解するよう努力をし、あるいは分かり合えずにぶつかって―――そう
やって竜樹と時を重ねてゆく事が、今の自分に出来る竜樹への応え方なのだと、セレ
アスは思った。
「メルキドに行かないか」
「えっ?」
セレアスにとっては、懐かしい故郷の名前。
「お前が生まれ、育った街なんだろう?」
「は、はい」
「だったら、一度見てみたい。‥‥‥いいだろう?」
そういうと竜樹は、飛竜の背をぽんぽんと叩いた。
「ドゥーラ、北へゆこう」
飛竜は分かった、とでもいうように、一声大きくいなないた。そして、その大きな翼
をひるがえし、北に大きく進路を変えた。
「わっ‥‥‥!」
「つかまっていろ」
その胸に、しっかりとセレアスを抱く。飛竜の身体が大きく傾き、やがて落ち着くま
で、竜樹はずっとセレアスを抱き占めていた。

今は、きっとこれでいい。
二人とも思った。先の事など何一つ分からないけれど。
でも、いつかきっと―――その先には、それぞれの思いがあるのだった。

こうして、二人の長い、長い旅は始まったのである。
〜 了 〜


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