この世界の全て


18年、ずっと信じてきたものでさえ。
どうでもいいと、思える。
そんな自分に気付いた。

―――地底城。
およそ光とは無縁である筈の場所は、しかし、暖かな魔法の光に満ちていた。
地上の多くの人間達は、ここを知らない。
竜王の末裔が、今もこの城に生きている事。
まして、ひとりの人間が、その末裔と共に在る事など‥‥‥。

人間の名はセレアス。
メルキド最後の大神官と謳われたサリム老の、たった一人の孫であり、赤星の祝福を
受けた神童でありながら、神官の道を選ばず、魔法使いとして修行の旅を続けてきた
若者である。
その信仰は今も失われていない。
でも―――否、だからこそ。
自分の中に、神々への敬愛よりも強い感情が生まれた時。
それを認めてしまった時。
セレアスは、苦しまなくてはならなかった。

許されない事だと知っている。
でも、祈るしかない―――。

「こんな所にいたのね」
声に、セレアスはハッと顔を上げた。
旅を終えて切ったばかりの髪は、以前のように邪魔にはならず、その動作にもサラリ
と軽く揺れただけだった。
柔らかい金色の髪。
驚きに見開かれた瞳は、美しい青。
少女と言っても差し支えないような、優しく穏やかな顔立ちをしている。
その表情は、しかし、強い憂いを含んで、頼りなく揺れていた。
「ルビス様‥‥‥」
祈りの姿勢を解き、セレアスはようやく部屋に入ってきた女性の名を口にした。
「仕方のない子ね、全く」
天使の如き美少女が、やけに年季の入った溜め息をついてみせる。
実際、人間には想像もできない程の、長い長い年月を生きている彼女だ。
ルビスはぐるりと部屋を見渡した。
普段は使われていない―――と言っても、広い地底城だけに使われていない場所の方
が多いのだが―――その部屋に、セレアスは膝を折っていた。
空を模した天井のステンドグラスは、自ら魔法の光を放っている。
それが地底城の一室を幻想的に彩るさまは、地上の神殿さながらだった。
セレアスがここに来る理由は、多分、そういう事なのだろうとルビスは思う。
「こんな所にずっと閉じ篭ってたんじゃ身体に毒よ?」
「でも‥‥‥」
「でも、じゃないの」
めっ、と子供でも叱るような顔でルビスは言った。
それでようやく、セレアスも少しだけ笑った。
「すみません。でも大丈夫ですから」
「もう‥‥‥気持ちは分かるけどさあ」
呆れたように、ルビスは見えない空を仰いだ。
セレアスの苦悩。
それは竜樹への想いに他ならない。
信仰すべき神よりも、この世界の何よりも、たった一人を望んだ。
その事はもう、セレアス自身が認めていた。
そして―――そんな自分を、許す事ができないでいる。
「そういう所は、むしろ竜樹を見習いなさいよ」
「はあ‥‥‥」
苦笑しながら、いつも堂々として自分を疑わない竜樹の姿を思い浮かべた。

”神がどうした?俺はセレアスが好きだぞ”

文句あるか、とでも言いたげに、鋭い瞳で、強く、真っ直ぐに―――。
誰にも何にも縛られない人。
それが竜樹だ。
「あんな風に生きれたら、どんなに‥‥‥」
楽でしょうね、と。
そう言いかけた事が分かったのか、ルビスは少し考え込むような顔をして。
「‥‥‥竜樹ってさ」
ゆっくりと、語り始めた。
「あんな風だから、自分勝手で我が侭、って気がするでしょ?そうじゃないのよね。
 自分は自分―――自由なの。我を通す代わりに、その生き方を他人に押し付けない。
 相手も自分も曲げずにやっていこうとする、そんな強さがあるのよ」
「ルビス様?」
「いらっしゃい」
突然、ルビスがセレアスの手を強く引いた。
「あっ、あのっ、まだお祈りの途中―――」
「いーから、いーから。ねっ?」
ウィンクひとつでセレアスを沈黙させた女神は、地底城のどこか別の場所に向かって
走り出した。
セレアスは諦めたように従う。
やがて、見知らぬ部屋の前で、ルビスの足が止まった。
「ここは―――」
「しっ」
人差し指を唇に当て、ルビスは悪戯っぽく微笑んでみせた。
男なら、どんな我が侭でも聞き入れてしまいそうな甘い笑顔だ。豊かな蜂蜜色の髪が、
魔法の光に淡く煌いている。
セレアスは戸惑いながらも、言われた通りに声を落とした。
「ここに何があるんです?」
「ねえセレアス」
質問には答えず、逆にルビスが聞いた。
「あなたがずっと神に祈ってる間‥‥‥竜樹、何してると思う?」
言いながら、ルビスがそっと扉を開けた。
廊下よりもやや明るい光が零れてくる。
知らない部屋だ。
ルビスに促されるままに覗き込んだ室内は、予想外に広かった。
中央に古びたテーブルがひとつ。
積み重ねられた本の山から、真っ黒な頭が覗いている。
竜樹だろう。
手元の本に目を落としたまま、二人に気付く様子など全くない。
ふと、竜樹の声がセレアスの耳に届いた。
誰に読み聞かせる訳でもなかろうに。
不審に思い、その声に集中し―――。
「―――!!」
思わず叫びそうになり、セレアスはハッと両手で口を押さえた。
己の鼓動に掻き消されそうになりながらも、その声を夢中で追いかける。
そう、聞き間違う筈などない。
セレアス自身、誰よりも慣れ親しんだ韻律―――。
『アレフガルド創世記』と呼ばれる、神話の一節だった。
竜樹が神話を詠む。その不思議も忘れて、セレアスはただ聞き入った。
澄んだ声。淀みない口調。
綺麗だ―――心から、そう思った。
「竜樹、神学の勉強してるのよ」
「えっ?!」
今度こそ本当に驚いて、セレアスはルビスを振り返った。
神など信じないと言った竜樹。
どうして、と。
セレアスが口にするよりも早く、答が与えられた。
「あなたの為にね」
ルビスは優しく微笑んだ。
その時の竜樹を思い出すように。
―――ずっと神官として学んできたから、セレアスはああなんだろう?
竜樹は、そう言って。
「同じように苦しむ事がなくても、せめて理解したいって」
その為に神を学ぶ。
幼い頃から、セレアスが当たり前に学んできた事を。
セレアスの心に少しでも近付けるように。
辛いこと全部包んでやれるように。
きっと幸せにするから。
セレアス。
セレアス―――。
「‥‥‥っ」
堪え切れないものが、ふっと目頭を熱くする。
セレアスは泣いていた。
涙は止まらない。次から次へと溢れ出す―――。
「ルビスか?邪魔するなと言ったろう」
さすがに気配を察したらしい竜樹が、不機嫌そのものの声を飛ばした。
が、すぐに何かおかしいと気付いて顔を上げる。
「え?あ‥‥‥」
竜樹は絶句した。
立っていたのはセレアスだった。
しかもルビスは役目を終えたとばかりに退散している。
泣いているセレアスに、俺が何かしただろうかと、咄嗟に考えを巡らせる竜樹だった
が、混乱するだけで全く思い当たらない。
とにかく席を立って、セレアスの許に駆け寄った。
「セ―――」
竜樹が言い終えるより早く、セレアスの腕に包まれた。
どくん、と心臓が跳ね上がる。
伸ばした腕を、思わずそのまま虚空に彷徨わせてしまう。
「私は‥‥‥」
ぎゅっ、と竜樹を抱く腕に力がこもる。
「私は、自分の事だけ考えてた‥‥‥」
セレアスは泣き顔を隠すように、竜樹の胸に顔を埋めた。
ひとりで苦しみ、ひとりで祈って。
こんな風に悩んだりしない竜樹の気性を、ただ羨ましいとセレアスは思ったのだ。
なのに竜樹は―――。
「私はあなたに、何一つ‥‥‥」
それ以上、もう声にならなかった。
強くなりたい。
今、途方もなくそう感じる。
「セレ‥‥‥」
しばし呆然とセレアスの言葉を受け止めていた竜樹だったが、やがて、優しい微笑み
を浮かべると、所在なく漂っていた腕を、しっかりとセレアスの背中に回した。
「創世記の暗誦でもやって、おまえを驚かせようと思ってたんだがな」
柔らかい金色の髪を、何度も撫でてやる。
それでもセレアスは泣き続けた。
いつまでも、いつまでも―――。
それを、たまらなく愛おしいと思いながらも。
「‥‥‥泣くな」
竜樹は言った。
いっぱい泣かせてきた事。
たくさん傷つけた事。
もう数え切れないそれらの事を、竜樹は全部、覚えてる。
それでもセレアスは、ここにいる事を選んでくれた。
「泣くな。俺に全てをくれたのはおまえなんだ。だから―――」
セレアスの涙を拭うように触れた手を、そのまま顎に回し、上向かせる。
戸惑う瞳からは、今も涙が溢れていた。
赤星の神官。
金の魔道士。
強く優しい彼の、その弱さまでも。
竜樹は、全てを愛している。
何も持たなかった自分に、セレアスは新しい世界をくれた。
だから―――。
「今度は俺に、おまえを幸せにさせてくれ」
返事はもう聞かない。
セレアスが息を呑む気配にも構わず、開きかけた唇を塞いでしまう。
微かな抵抗。
けれど竜樹は離さない。
その行為が受け入れられるのを、竜樹は待った。
長い時間ではなかった。
いつしか力を失ったセレアスの唇が、おずおずと開かれる。
ゆっくりと吐息を絡ませた後、竜樹はそっと身体を離してセレアスを見つめる。
そして、今度は遠慮がちに自ら瞳を伏せたセレアスに、もう一度、口付けた。

「怒ってるか?」
ようやく泣き止んだセレアスに、竜樹が神妙な顔で聞いてくる。
「別に‥‥‥」
セレアスは、本の山に埋もれるように座ったまま、竜樹の方を見ようとしない。
その背中に覆い被さるように、竜樹はセレアスを抱いていた。
「じゃあ、もう泣かないか?」
「泣きません!」
「幸せか?」
「‥‥‥」
「言っておくが俺は幸せだぞ」
会話が途切れる。
伝わるのは温もりだけ。

‥‥‥まだ、セレアスは言えない。

こんなに確かな気持ちであっても。
竜樹が全部分ってくれているとしても。
それでも―――。

いつか、言える日が来るだろうか。
たった一人のあなたに―――。
〜 了 〜


あとがき

えー、当時描いたらしい8Pくらいの漫画が残ってましてね。
さすがに見せられるモノじゃないんで、文章にしてみました(^-^;)。

二人の話、ずっと書いてないけど。
話自体は自分の中で、相当未来まで続いてます。
だから机の中とかHDDとか、いろいろ掘り起こしてみると、こういう話も出てくるんですよね(^^;)。

それを全部カタチにできるとは、正直、思ってないですが。
竜樹とセレアスが旅を終えて帰ってくるまでは、小説にしたいなあと、今も思ってます。

そんな気持ちを忘れないように書きました。
がんばれ>自分。


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