竜が消えた世界の話


アレフガルド内海の孤島にそびえる伝説の城。
竜王が、死によってその玉座を退いてから百年。主なき城に一人の剣士が訪れたのは、
竜樹とセレアスが『上の世界』に旅立った翌日の事だった。

城の留守を預かる精霊神ルビスは、いつものようにいつもの如く、スライム達を侍ら
せながら午後のティータイムを楽しんでいた。
その安穏な空気を打ち破って、突然、扉が開け放たれた。
「ルビス!!」
剣士は叫んだ。
驚いたスライム達がわらわらと逃げ出すのも構わず、ティーカップを片手に目を丸く
している美貌の少女に、つかつかと歩み寄ってゆく。
短く切り上げた漆黒の髪、そして瞳―――。
その色は、およそ人間には身に纏えぬ種類のものだった。額に巻いた幅広のターバン
が、先の尖った長い耳―――魔族の象徴―――を覆い隠している。
年齢は三十を超えた位に見えるが、実際もっと生きてきた。それが見た目に表れない
のは、剣士に流れる血の一部が、人間ではない、より永遠に近い命を持つものだから
なのだろう。
剣士はルビスの驚きなど意に介さぬ様子で、つかつかと歩み寄ってきた。
「ど、どうしたの?ねえ何?ちょっと、顔がコワイ―――きゃあ?!」
たちまちルビスの前に立った剣士は、平時でさえ恐怖の対象と成り得る顔をいっそう
強ばらせたまま、半ばルビスに掴みかかるようにして言った。
「この世界から竜樹の気が消えた。どういう事だ?」
ルビスの顔に、なおいっそうの驚きが広がってゆく。
その理由は、剣士が想像したものと違っていたのだが‥‥‥。
「答えられぬと言うのか‥‥‥」
「え?あ、やだ違うわよ!誤解してない?」
慌てるルビスに、今度は剣士の方が戸惑う番だった。もっともこの男は、ルビスのよ
うに感情表現が豊かではない。彼のたった一人の息子にも、そんな所ばかりが遺伝し
てしまった。
その息子の名が、竜樹であった。
父親が与えた名前ではない。18になるまで名前を持たなかったその子の父親は、今
も自分の名前さえ持たぬ男なのだ。
あるのは竜樹の母親が、彼を呼ぶ為に付けた名前だけ。その母親が竜樹を産んですぐ
に亡くなると、男はもう、その名を使わなかった。
ルビスはやっと剣士がここへ来た意味を悟り、彼が、おそらくは最も知りたいであろ
う事を端的に伝えた。
「竜樹は無事よ」
言葉は沈黙を以って報われる。
一見、まるで表情を変えないようでも、剣士を取り巻く空気の温度が2、3度は下が
ったように、ルビスは感じられた。
「上の世界へ行ったの。竜の神の力が、結局、何処に在るべきか、誰のものであるべ
 きかを見定める為‥‥‥と言っても竜樹は、さっさとあの力を返してくるつもりで
 しょうけどね」
続くルビスの言葉を反芻し、剣士はまた不機嫌さを増したようだ。
「誰の差し金だ」
「まあ、グラーン様かしら」
「何故止めなかった」
「竜樹やセレアスにとって、悪い話じゃないと思ったんだけど?」
「‥‥‥」
「ホント、あなたって不思議よね」
「何?」
「竜樹の事なんか忘れてるかと思えば帰ってくるし、神の力に拘るかと思えば、竜樹
 がその核心に迫る事を恐れてる」
ルビスは笑った。
男なら誰もが夢見る天使の微笑に、しかし、剣士は無言で背を向けた。
機嫌が悪くなったと言うよりは、平時の自分を取り戻したのだろう。
こんな所までやって来た自分の方がどうかしていると、剣士は今更のように自覚した
らしい。
「帰る」
「最短記録だわ‥‥‥」
わざとらしいルビスの溜め息にも、一顧だに与えない。
「ねえ、ちょっと待ちなさってば!」
「待つ理由がない」
「もう!帰るって言うならここでしょ、あなたの家は」
「連れがいる」
「―――はぁ?」
突然、二人のものでない悲鳴が聞こえた。
「目を覚ましたか」
剣士は部屋を出ていく。ルビスは慌ててその背中を追った。
声の主はすぐに発見された。地下6階に続く石階段の途中で、ストーンサーバントの
彫像―――モンスターではなくただの石―――を前に気絶していた。
「怪物と間違えたんだろう。全く‥‥‥」
剣士はその、悪い夢にでもうなされた表情の若者を、軽々と両手に抱え上げた。
駆け出しの盗賊といった所であろうか。身なりや装備品から、旅慣れている事は分か
るものの、モンスターの徘徊するダンジョンは初体験だったようだ。
「さっきも爆弾岩につまずいて気絶したんだ。向こうの部屋に転がしておいたんだが、
 目が覚めて俺を探したんだろう」
「ねえ、それより誰なの?」
「連れだ」
「じゃなくて、どこの誰なのよ」
「知らん」
「呆れたわ‥‥‥」
実の息子は放置で、同じ年頃の若者と旅をしているというのが、更に呆れる。
どこまで矛盾だらけなのだろう、この男は‥‥‥。
ルビスの呆れ顔など一向に構わぬ様子で、剣士はさっさと転移の力を発動させた。
「ちょっと!話はまだ―――」
語尾に重なるように光が舞って、剣士と若者は消えていた。
「あーあ‥‥‥」
おそるおそる集まってきたスライムの一匹を抱き上げながら、ルビスは溜め息を繰り
返すしかない。
それでも竜樹を心配して戻ってきた所は、評価に値するだろうか。
「親子仲良く幸せに―――なんて日は来るのかしら?」
竜樹達の去った空の彼方に、ルビスは思いを馳せる。
二人の旅と同様、剣士の旅もまだ終わってはいない―――。

と、そんな事件があった頃。

竜樹とセレアスが『上の世界』に旅立った事で、もうひとつ、ささやかな事件が発生
していた。
「セレアス、元気にしてたかなあ?」
「楽しみですね、老師さま」
「そこまで騒ぐ事でもあるまい‥‥‥」
メルキド大神殿。
大神官から見習いまで、赤星の神官を知る誰もが、今やその帰りを待ちわびていた。
もうすぐ帰るという、セレアスの手紙―――。
メルキドまで数日という村から、その連絡を送った直後、セレアスは運命の悪戯によ
って、魔界、天界、そして上の世界へと旅立っていたのだった。
なかなか帰らないセレアスに不安が広がっていた頃、隣村で、セレアスらしき旅人が
忽然と消息を断った事が判明。
神殿は、竜樹達がメルキドを訪れて以来の大騒動となる‥‥‥。

幸か不幸か、地上を離れた二人は何も知らない。
今のところは。
〜 了 〜


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