風の声・土の声


朝。風に揺れる枝の葉ずれや、目覚めたばかりの小鳥の歌が、冷たく澄んだ空気と共
にセレアスを包む。
森の空気には心が洗われた。早朝ともなれば、それはなおさらだ。大きく息を吸い込
むと、ぶるっと身体が震えた。身体の中の冷たい塊はすぐ体温に馴染み、そして、な
んともすがすがしい気分になる。
朝露に濡れた柔らかい草の上に、セレアスは静かに座した。そして、その美しい蒼の
瞳を閉じたまま、まるで時が止まったように、身動き一つしない。
神経が集中する。
高まりが頂点に達した時、セレアスはスッと目を見開いた。すると、どうだろう。足
が、わずかに地を離れ、そのまま少しづつ、少しづつ、身体が浮き上がって―――。
「セレアス!」
「わっ!?」
突然かけられた声に、セレアスの集中が解けた。
ドサッ!
「‥‥‥大丈夫か?」
「なわけないでしょう!」
もろに打った下半身をさすりながら、セレアスはゆっくりと立ち上がった。
「いたたた‥‥‥」
「何をしていた?」
「竜樹さんこそ、何でこんなに早く‥‥‥」
「たまたま目が覚めたら、お前がいなかったんでな。いつもこんなに早いのか?」
「いつもってわけじゃ‥‥‥」
セレアスは言葉を濁した。こういう時のセレアスは―――竜樹はすかさず聞いた。
「何か隠してるだろう」
「そっ、そんな!別に―――」
慌てたように即答し、しかし、竜樹の鋭い視線にあって、セレアスは言葉を詰まらせ
た。どうしてこう、何もかも見透かすような目をするのだろう。心の奥の、そのまた
奥まで。
「‥‥‥すみません」
「どうして謝る」
「隠してた、ってわけじゃないんですが‥‥‥」
どうしても、セレアスの言葉の歯切れは悪くなる。確かにここ数日、セレアスはいつ
もにもまして早起きをしていた。竜樹が起き出す頃には、何事もなかったように戻っ
て来て。
「だから、何でそんな事してた」
気の長い方ではない竜樹が聞く。
「それは‥‥‥」
沈黙。セレアスがあんまり困った顔をするから、竜樹は一つ大きく息をつくと、ふい
と視線を反らし、言った。
「もういい。戻ろう、ドゥーラも待ってる」
竜樹はくるりときびすを返した。そのまま、もと来た道へと引き返そうとする。
「‥‥‥!あ、あのっ―――」
竜樹が振り返ると、セレアスの縋るような視線にぶつかった。蒼の瞳が、迷いがちに、
それでもまっすぐ竜樹に向けられている。
話そうとしているのだ、セレアスは。それが分かったから、竜樹は、待った。
「わたし―――」
竜樹はごく、と息を飲んだ。
「飛べるようになりたいんです!」
「‥‥‥はあ?」
竜樹は間抜けな声を上げた。一瞬、言いたい事が分からなかったが、セレアスは真剣
そのものである。
「何だそれは」
「だから‥‥‥竜樹さんみたいに、飛べたらいいと思って‥‥‥」
竜樹はもう一度聞き返そうとしたが、ふと、思い出した事があった。
水の都を眼下に望む、遥かな山あいの草原での出来事。地上に向かい、セレアスを両
手に抱いて空を舞った。その時のセレアスの顔を、竜樹は思い描いていた。困ったよ
うな、怒ったような、ふてくされたような。自分でも分からないいくつもの感情を混
ぜ合わせ、複雑そうにしかめた眉が、おかしくも、また、可愛らしかった。‥‥‥言
ったら、怒るだろうが。
「‥‥‥分かってます、私は竜樹さんとは違う。でも何て言うか、その‥‥‥」
セレアスは言葉を探し、うまく言えずに言い淀む。
竜樹には何となく分かる気がした。赤星の魔導士、セレス=アスラーン。希代の神官
として生まれ、癒しなす光と紅蓮の炎を操る、少女のような若者。その力に並ぶ者な
く、しかし、なおも己を磨く事をけして忘れなかった。
そんなセレアスにも出来ない事を、やってのける相手―――それも、当たり前のよう
に―――に対し、抱く思いは。
竜樹は何となく、困ったように額を掻いた。
やがて、セレアスは諦めたように大きくため息をつくと、少し情けない顔で笑った。
「駄目ですね、私は。あなたがそういう人だと知ってる癖に、どうしても、心のどこ
  かで納得していない。‥‥‥悔しかったんです。いえ、今でも、悔しい」
セレアスの手が、竜樹の袖をぎゅっと握り占めるのを、竜樹は為す術もなく見つめる
事しかできなかった。俯きがちなセレアスに、竜樹はかける言葉が見つからなかった。
途方に暮れ、おずおずとセレアスの肩に手を伸ばしかけた、その時である。
「―――え?」
竜樹は、短い声を漏らした。ふいに顔を上げたセレアスの、そのやけに晴れやかな笑
顔に、竜樹は細い目を丸くした。
「何だか、言ったらスッキリしました」
そう言ってもう一度にっこりと笑うと、セレアスは駆け出した。
「おっ、おい!」
「すいません、早く戻りましょう!」
竜樹は呆気に取られた。しばらくは呆然と立ち尽くし―――でも、気が付けばそんな
セレアスを見つめたまま、竜樹の心は蜜のような甘さを覚えていた。軽やかに大地を
駆け、光そのままに笑う、そんなセレアスが、何だかとても綺麗で、そして、ああや
っぱりセレアスが大好きだと、竜樹もまた、笑ってしまうのだ。
「セレアス!」
竜樹は、溢れる想いに背中を押されるように、その名を呼び、追いかけた。振り返っ
たセレアスを腕に捕まえると、そのまま抱き占めた。
「え?竜樹さ‥‥‥わあっ!?」
セレアスが慌てたように叫んだ。竜樹はセレアスを抱えたまま、大地を駆けるような
気軽さで、セレアスともども、ふわりと宙に舞った。
「い、いきなり何するん―――」
「聴こえるか?」
セレアスの抗議を遮るように、竜樹が言った。抵抗が止み、セレアスはきょとんと目
をしばたかせる。
「え?」
「だから。いつもお前がするように、見えぬもの、聞こえぬものを感じてみろ、と言
  っている」
セレアスがますます不思議そうな顔をするので、竜樹は少し考えてから、言った。
「手足を動かすのに、いちいち神経を使うか?」
「?いいえ」
今度はすぐに、セレアスが答えた。
「そんな感じだ。歩くのも、話すのも、当たり前のように出来るだろう?‥‥‥いや、
  もっともっと、当たり前の事なのかもしれん」
「こんな力が使える事が、ですか?」
竜樹は頷いた。
「‥‥‥でも、私の力は、竜樹さんのものとは違う。どんなに修行を積んでも、魔法
  の力を使うには、精神の集中と、古の言葉が要るんです。手足を使うのと同じわけ
  にはいきませんよ」
とがめるように、セレアスが言う。
「そうか?」
「そうですよっ」
まっすぐな竜樹の瞳が、いっそ憎たらしい程だ。そんな事が出来るのは、世界中でも
きっと竜樹だけ。やっぱり今でも、少し、悔しい。
「じゃあ、セレアス」
少しかしこまって、竜樹が聞いた。
「お前が魔法を使う時、精神を集中するのは、そもそも何の為だ?」
予期せぬ問いに、セレアスは思わず、真剣に悩んでしまった。
「それは‥‥‥力を集め、操る為で‥‥‥」
うーん、とセレアスは考えた。
人間は生まれつき魔法を使えないから、自分の中に眠る魔力を自覚する事から全てが
始まる。以後、その力を引き出す方法、操る方法を学び覚えるわけだが、たとえどん
なに習熟しても、望み通りに力を使うには、相応の集中力がいる事は変わらない。一
瞬の気の緩みが、魔力を暴走させる。呪文の言葉の一音の誤りが、予想もつかない結
果を生む。大きな魔力を使おうとすればする程、精神的な負荷は大きくなり、しくじ
った場合の被害は図り知れぬものとなる。歩くように、話すように―――そんなのは、
無理だ。人はもともと、そんなふうには出来ていない。そうセレアスは思った。
「俺は、自分の力がなんなのかは良く分からぬ。ただ言えるのは、手や足と同じよう
  に、自分に近く、思うように動かせるものだという事だ」
「‥‥‥」
そう、竜樹は言う。お前は違うのか、とでも言いたげに。セレアスの胸の奥が、小さ
く疼いた。
「別に、普段からその存在を意識しているわけじゃない。当たり前なんだ。だから、
  思う時に思うように使える。お前の力は、そういうものではないのか?」
「私はそんな事―――」
「そうか?呪文や集中は、一種の形式だと思うぞ俺は。それで力が生まれるのではな
  く、力は最初から、お前の中にあるのだろう?」
「それはそうですが‥‥‥」
「だったら、要はそれをどう使うかだろう。法に従う限り、法に縛られる。‥‥‥そ
  うじゃなくて、例えば風を受けとめたり、大地を踏みしめるように、もっと自然に、
  自分の力を感じるんだ。俺の力も、本当はお前と同じなんだ。ただお前が、それを
  知らないだけだ。だから言った、聴こえるか、と。魔法を使う時だけじゃない、本
  当は、いつもそこにあった筈の声を聴いて欲しいと」
竜樹の言葉が、突然セレアスの結界を突き破った。
セレアスはあっと短く呟くと、その目を大きく見開いた。竜樹の言葉が、セレアスの
老師の言葉と重なったのである。

  ”祈り、そして、心を白くせよ。さすれば力を、己が内に感じる事が出来よう。
    魔道の修行とは、力を、技を磨くのみにあらず。おのが力を正しく知る事であり、
    その正しい使い方を知る事に他ならぬのじゃ”

セレアスはまじまじと竜樹を見つめた。そのあまりの強さに、竜樹が首を傾げる程に。
何という事だろう。竜樹は自分の力を知り、その使い方を知っている。魔法使いの行
う全ての術法が、その為の方法である事を、誰に習うでもなく知っているのだ。
生まれながらに、魔力を使う事が出来ない人間。それでも、そんな力は誰にでもある
のだと、人々は昔から知っていた。その力を使う為に、さまざまな魔法が確立された。
己の魔力を炎に変え、光に変え、剣に変え、幻に変える、その為に。それはつまり方
法であり、力そのものではない。その生ける証拠が竜樹ではないか。セレアスは呆然
とした。
そもそも、術法によってしか魔力が引き出せないのなら、古の人々は何故、己が内の
神秘に気付いた?セレアス自身、怒りや恐怖に我を忘れて、無意識に力を使ってしま
う事があったではないか。
竜樹は自分とは違う―――自分で引いた境界線を、越えられないと信じ込んだ。だの
に、届かぬ夢を追うように、心はいつも、竜樹を追いかける。そして一人で、焦り、
もがいた。でも今、全てが竜樹という光に包まれ、目から鱗が落ちるように、セレア
スそのものを揺さぶり、そして新たな輝きに満たした。
「あなたにはいつも、本当に‥‥‥」
セレアスは夢見るように呟いた。竜樹は奇跡だ。何も知らぬ子供のようでありながら、
いくつもの真実をその身に宿し、セレアスを驚かせる。そしていつしか、目を離す事
も出来ぬ程、セレアスをその奇跡の虜にしてしまっているのだ。そんな事実に、竜樹
はどれ程気付いている事か。そして、セレアス自身も。
竜樹はしばらくの間、セレアスの思いを推し量ろうとするように、じっとその視線を
受けとめていたが、それが反論や不満を隠したものではないのが分かったので、話を
続けた。
「いつも感じてた筈だ。たとえ、魔法を使う時でなくとも。今も、こうして俺を支え
  る力がここにある。分かるだろう?」
そう竜樹が言ってもセレアスがまだ、じっと竜樹を見つめたままなのを、自分の言っ
た事が分からないと思ったのか、竜樹はセレアスを、より近くに抱き寄せた。
「!りゅ、竜樹さん!?」
「こら、暴れるな」
セレアスの身体が、ぎくりと固まった。耳元でのささやきが、楽器の弦でも弾くよう
に、ぴんとセレアスの神経をくすぐり、それが足の先まで一瞬で伝わった。
動揺を隠そうと、セレアスは声を殺し、竜樹のローブの裾を握ったまま待った。しか
し竜樹もまた、何も言わずにただセレアスを抱き占めるから、セレアスの心は波立っ
た。心臓が早い。自分の鼓動と、竜樹と触れ合う部分の熱が、空っぽの頭の中を塗り
つぶす。
どうしよう―――焦るばかりで、身体が動かない。全身が神経になってしまったみた
いで、そよ風が頬を撫でるだけでも、鋭い緊張が走る。よりにもよってそんな時に、
竜樹は甘い吐息とともに、セレアスの耳元に優しく囁きかけたのだ。
「‥‥‥感じるだろう?」
セレアスの心臓が跳ね上がった。一瞬、言葉の意味を取り違え、かあっと全身が灼熱
した。何てことを―――そう言いかけた口が、まん丸に空いたまま止まる。竜樹は邪
心のかけらもなく、不思議そうにセレアスを見つめていた。誤解?考え直して、血の
気が退く。そんな意味の発言を、白昼堂々するわけがないではないか。そう気付いた
セレアスの顔色が、またいっそう真っ赤になった。
「どうかしたのか?顔色が―――」
「な、なっ、何でもありません!!」
セレアスは一人咳払いし、なお訝しげな竜樹から視線を反らした。
でも―――じゃあ、どんな意味で言ったのか。
どうにか自分を落ち着かせ、セレアスは竜樹を窺った。
分からないか?‥‥‥そう、問いかけるような瞳。見つめる内に、不思議な感覚に襲
われた。竜樹がいて、自分がいて、風と雲が、土と生命が、二人を包んでいる。竜樹
の瞳に誘われるままに、セレアスはその全てを、今さらのようにその身に感じた。そ
してセレアスはようやく、竜樹の真意を見つけるのだ。
―――ああ、本当だ。
セレアスは、目を閉じた。
竜樹の温もり、自然の声。そして、それらを感じるのと同じに、ごく自然に、分かる
事があった。
それは、力。竜樹を守るように、包むように、大地の腕から解放し、大気の懐に預け
て。
そんな優しい力が、流れるように竜樹から発し、そしてまた竜樹に還ってゆくのを、
セレアスは夢のように感じていた。
それは何も、特別なものじゃない。世界中で竜樹だけが持つとか、そういう力ではな
く、むしろもっとも普遍なるもの。そう、空に風が吹くように、大地が生命を育むよ
うに。セレアスや、他の誰もが持つ力と、その根本はなんら変わらない。ただ、何よ
り純粋なそれだった。そんな事に、今ごろやっと気付いたのだ。
「竜樹さん‥‥‥」
竜樹はただ、頷いた。そして、その額をセレアスに重ねる。さっきよりももっと、竜
樹の力と存在が、セレアスの中に入り込んでくる。
五感が、研ぎ澄まされた。全ての自然の声だけが、まっすぐセレアスに伝わってくる。
風の声、土の声、木々の囁き、朝の光―――そして、竜樹の力。今ならセレアスも、
そんな自然の中に溶けてしまえる気がした。
竜樹の力が、誘う。セレアスの中で、何かが解放された。竜樹に応えるように―――
そう、その腕に竜樹を抱くように、しかし腕ではなく、セレアスは竜樹を、そして自
分を、抱き占めていた。
風が変わった。セレアスのもう一つの腕が、竜樹の力と重なる。その存在を確かめ、
そして追いかけるように。誘われるままに心を解き放ち、全てをあるがままに、受け
入れ、そして感じた。
風が揺れる。土がたたずむ。草木が揺れる。小鳥が歌う。‥‥‥そして、竜樹が、自
分が、その力が、ここにある。心を開けば、全ての答がそこにあった。遠ざけていた
のは、他ならぬ自分自身。でも、今やっと、心が全てに、開け放たれた。
―――いつまでも、いつまでもこうしていたい。
セレアスは願った。誰より何より、白い心で。求め、願い続け、それでも届かなかっ
た大切な物を、今、この手につかんだのだと思った。
「‥‥‥セレ、目を開けて」
優しい声に、セレアスは従った。‥‥‥そして。
「あ―――」
気が付くと、竜樹の腕はセレアスに触れていなかった。目の高さは、かわらず竜樹と
同じにあるのに。
驚いて竜樹を見ると、竜樹はひどく嬉しそうに、愛おしそうに、セレアスを見つめた
まま、笑っていた。
「お前は今、自分で飛んでいるんだぞ?」
セレアスは言葉をなくした。
その通りだった。足元に、大地はない。力は今や、自分の中から発していた。飛び立
とうと思えば飛び立てる。降りたければ降りられる。今はそれが、何の不思議もなく、
セレアスの一部だった。いや、本当は、もっともっと昔から。
初めて歩いた赤子のように、セレアスは戸惑い、その感覚を確かめるように風を踊ら
せた。そして、もう一度竜樹を見つめる。
「‥‥‥どうした?」
声にならないセレアスの顔を、竜樹が覗き込んだ。
返事をしようとしたが、喉が熱くなって―――セレアスは慌てて、竜樹の胸に顔を埋
めた。
「お、おい」
焦る竜樹の声が聞こえたが、離せない。泣いてしまいそうだったから。

セレアスは、思う。
風の声を聴くように、これからもずっと、竜樹の真実を感じていたいと。
口下手で、感情表現が苦手で、うっかりすると聴き逃したまま過ごしてしまう竜樹の
本当の声を、もっともっと聴いてゆこう。そう、心から思った。

「竜樹さん、ありが―――」
やっと言いかけた言葉を、風のような竜樹のキスがさらった。

春は、まだまだこれからである。

〜 了 〜


inserted by FC2 system